「人を裁かず、赦しなさい」
ルカによる福音書6章37節〜38節
札幌桑園教会に赴任して7年が過ぎました。その間、毎年のように取り上げているのがこの箇所です。この短い節に「人を裁くな」と「人を赦しなさい」との勧めがあり、そうすれば「あなたがたも裁かれることなく、赦される」との約束が与えられています。キリスト者が主の日ごとに確認しながら礼拝を守るための大切な事項がここに記されています。 最初に私たちは人を判断する時、何を基点に判断するでしょうか。一般論から考えてみましょう。世界には約260ヶ国ありますが、私たちは平和な200ヶ国よりも戦争が起こっている数十の国々に目がいくものです。政治でも政党の良い政策を評価することより悪い方策や議員の不手際に目がゆくものです。マスコミもそうしたことばかり取り上げる理由は本質的に他者を攻撃することを人は好むことを知っているからです。つまり人間はとかく人のあらを探して批判することを好む生き物なのです。けれども聖書は「悪口を言い合ってはなりません」(ヤコブ4:11)、「俗悪な無駄話を避けなさい」(テモテ二2:16)と語っていることを思い起こしましょう。 次に、主イエスはなぜこの戒めを語ったのでしょうか。それは批判するところには信頼関係は成り立たないからです。つまり裁くことによって自分と隣人の関係は切り離されてしまうからです。さらに人を裁いた場合、同じ秤で今度は神から裁かれることになります。結局裁くことは神との正しい関係を成り立たなくさせます。人を批判する者は諸刃の剣のように神から同じ秤で裁かれます。そのことをいつも意識しながら、主の日毎に赦しを求めて礼拝を守り、教会生活を送ることが求められています。 では人を裁かずに赦してゆく生き方をするには何をしたらよいのでしょうか。重要なことは主イエスの十字架を仰ぎ見ることです。主イエスは赦しを常に語り、あの十字架上においても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成し祈られました。この祈りがあるから私たちは神の前に立てるのです。もし隣人を裁いているのならば、そこに十字架のキリストは見えていません。礼拝でどんなに神を高らかに賛美し、真摯に祈り、御言葉を聞いていても礼拝前後に隣人を裁いていたら、それは礼拝を守っていることに結びつかないのです。なぜならそこで赦しを叫ぶ十字架のキリストを見ていないからです。私は「他人の噂話をその人がいない場所では決してしないこと」と思います。他者を話題にしたら必ず悪いことを話す性格が誰にもあるのです。 桑園教会には以前「ノヴェーネ」と呼ばれる教会員のために祈る時が持たれていました。けれども最近病気になった教会員は「このことは教会員には話さないでください」との相談を多くされます。牧師も教会員もこの現実を受け止める必要があるのではないでしょうか。教会はアットホームと考えるのは間違いです。今どこの教会でも受洗者が起こりません。御心と言いながら自分たちの望むことを第一に求め、無意識に他者を除外する閉鎖的な教会になっている可能性があります。ここを改善しない限り、新しい信仰の友が加わる教会にはなり得ないのです。新会堂という建物は完成して3年が過ぎ外なる教会は整いました。次は内なる教会、教会の本質である聖徒の交わりを変えることが課題です。次世代に信仰のバトンを渡せる教会をめざして進みましょう。 (2026年2月1日 礼拝説教)
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