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(牧師 秋本 英彦 プロフィール)
1966年東京生まれ。
17才の時に「塩狩峠」(三浦綾子著)
を読んで深く感動して近くのキリスト教会に通い洗礼を受けました
22才で献身して神学校入学、卒業後は「美深、札幌北一条、
北広島山手」の北海道にある教会で奉仕。
2019年4月から札幌桑園教会で奉仕しています。
主日礼拝では「わかりやすい御言の説教」を心がけています。





「墓から始まる命」
ルカによる福音書24:1−12

 2019年、主の復活を覚えてイースター礼拝を迎えることを許されました。今、病院や施設において病気と闘いながら、あるいは体の不自由な生活を送りながら神を見上げて祈っている方々もおられます。この御堂に集うことができたのは、私たちの意思を超えた神の深い導きがあることを覚えて、主の復活の出来事に耳を傾けてゆきたいと思います。
 さて主イエスは金曜日、十字架に架けられて死なれました。そして金曜日の夕方からユダヤの数え方では3日目にあたる日曜日の朝が今朝開かれているルカによる福音書24章になります。最初に1節をご覧下さい。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)。週の初めの日、日曜日朝を待ちわびていた女性たちがいました。10節を見ると、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた婦人たち」であることがわかります。彼女たちは主が十字架で死なれる様を最後まで目撃した人たちでした。「明け方早く」とは原語で「深い暁、暗闇なお深き頃」で、まだ暗い夜明け前に彼女たちは墓に向かったのです。彼女たちが墓に向かった目的、それは主が十字架で死なれて墓に葬った後、すぐに安息日が始まってしまい、主に遺体に何の処置もすることができなかったためです。今まで愛し、従っていた最愛の師イエスが殺され、心は悲しみと無力感と絶望に包まれていたことでしょう。しかし彼女たちにはなおイエスを慕い愛する思いがありました。その愛に動かされるようにして、せめて死体の処置をして香料を塗ろうと墓へやってきたのでした。
 ところが2節には、「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」のです。この当時のパレスチナ地方は洞窟のような墓が使われており、入口には溝が設けられて大きな2−3bもの平たい石で墓穴を塞いでいました。とても女性の力では取り除けられない石です。ところが復活の朝、その石が除けられているという予期せぬことが起こっていたのです。この大きな石とは、生きている者と死んでいる者とを隔てている壁を象徴しています。それはある意味、人間の限界を示しています。誰しも最後は墓、死に向かって進んでゆく存在です。どんなに能力や名誉があっても死に対してだけは無力です。死は未知の要素があります。死んだらどうなるのか、誰にもわかりません。また孤独の要素もあります。愛する家族とも別れ、たった一人で死の世界に向かわねばなりません。墓は未知・孤独であり、その墓穴の石は絶望の象徴で、墓の大岩が一度塞がれたなら、私たち人間の可能性と存在一切を奪い去ってしまうものなのです。
 けれども婦人たちは、その大きな石をどうしたら良いかという不安を抱えつつも、墓に出かけて行きました。自分たちでは動かすことの出来ない大きな困難が横たわっているにも関らず、彼女たちは暗い墓にまで出てゆくのです。ここにイエス・キリストを信じる信仰者のあるべき姿を見せられるのではないでしょうか。初めから不可能であることを予測して行動を起こさない者には何事も起こらないでしょう。人間にとって困難と思われることや大きな不安材料が予想されたとしても、神や主イエスに対する思いによって一歩行動する時、初めて人間の思いを越えたことが神の奇跡として起こるのです。それはイエスの十字架の死を最後まで目撃していたからこそ出来た婦人たちならではの力でした。十字架はどんな障害をも乗り越えさせる力を与えるのです。
 続いて3節と4節をご覧下さい。「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」。墓の中は空っぽで、葬ったはずのイエスの遺体はどこにも見当たりませんでした。墓に遺体はなく、空虚な墓がそこにはあったのです。イエスの遺体がそこになかったこと。それはイエスの復活は霊だけの復活ではなかったことを明確に教えています。日本人は愛する者が亡くなった時、「愛する者は亡くなった、でも心の内に生き続けている」。そんな思いを持つことがあります。しかし主の復活は、そのようなものとは根本的に違う肉体を伴った復活でした。主イエスは生前のイエスとは全く違う、新しい、時間と空間に左右されない新たな復活の体を伴った存在になられていたのです。天の父なる神は、死の世界から主イエスを引き出して新しい復活の世界に移されたのです。
 けれども婦人たちは、墓の中でそのようなことが起こっていたとはわかりませんでした。ですから途方に暮れてしまうのです。すると今度は墓の中に輝く衣を着た二人の天使と思われる人たちが神の使信を伝えるます。その内容については5節以降にありますが、主イエスがかつて予告されていた通り、十字架に架けられて死に三日目に復活するという内容でした。この天使の言葉によって婦人たちも墓の中で何が起こったかを知ることができたのです。イエスの死体を墓に納めたままにしておかなかったのは、父なる神のご計画でした。それは人類最大の敵で解決できない死を、イエスが十字架と復活によって克服したことを示す神の栄光でした。受難のイエスは、この時から復活のキリスト、勝利者キリストとして告知されたのです。
 御子イエスを信じる私たちも今、また同じ恵みに与っています。私たちもいずれ一度は死を経験しなければならないとしても、それは決して無や終わりではありません、死者を復活させる神の力は、私たちの現実や信仰生活においても間違いなく働いています。主が死に勝利したということは、主を信じる私たちもまた信仰によって人生の勝利者へと変えられていることに繋がるのです。その神の力が及ぶ限り、私たちに絶望はなく死から命へ移る者と既に変えられているのです。それは復活を信じることによって確証へ変わります。スチュワートという聖書学者は次のように語っています。「キリストを復活させた神のエネルギーが、あなたにも私にも提供されている。そしてこのエネルギーは、死において私たちを復活させるばかりでなく、今、この地上で私たちが生きるのを助けても下さるのです」。
 確かに神を信じて生きるキリスト者の生活も、一見すると敗北や絶望と思えるようなこともあります。人生を謳歌しても、やがて老い、病気になり、最後は死を迎えなければなりません。神を信じていない人も信じるキリスト者も同じ道を辿ります。けれどもイエス・キリストが十字架と復活によって勝利を得たことは、主と信仰告白によって結ばれた私たちの人生には勝利しかないことを教えています。失敗と思える人生はありますし、失望と思える人生もあるでしょう。神を信じているのに、なぜこんな苦難が私の上に及ぶのかと思索してしまうこともありえるでしょう。けれども復活の力に与らせて下さるお方は、私たちの罪も失敗も、人生全てを愛と光の内に全て包み込んで下さり神の国へと導いて下さるのです。そこには、もはや死はなく神にある勝利しか存在しないと言い切ることができるのです。天使は、「イエスがお話になったことを思い出しなさい」と言葉をつなぎます。8節に、「そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。御言を想起した時、婦人たちの心に神の光がさし込みました。それは御言によるイエス・キリストの新しい出会いでした。彼女たちの復活信仰に生きる新しい歩みはそこから始まります。婦人たちは直ちに墓から戻って他の弟子たちに一部始終を伝えます。墓に向かった時の主の死による悲しみと絶望から、墓から始まった喜びの使信を知らせるという大きな方向転換がここで起こったのです。
 最後に、復活の使信を聞いた使徒たちは、どのような態度を取ったでしょうか。11節では、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。使徒たちは復活をとても信じることができませんでした。イエスの口から三日目の復活を何度も聞いていた使徒たちでさえ復活の事実は受け入れがたいことだったのです。それは、「イエスはキリストである、罪と死に打ち勝つ勝利者である」という強い信仰告白には至っていなかったからだと考えられます。その信仰が与えられるには、主イエス・キリストとの新たな出会いが必要だったのです。それはこのすぐ後に記されているエマオ途上における主との出会いによって与えられます。始めは共に歩いている主がわかりませんでしたが、聖書の御言を聴く内に心が燃やされてきて、勇気づけられ、共に食卓について主イエスがパンを裂いた時、そこにいるお方が主だとわかり、その途端、主イエスは見えなくなったと記されています。
 この真理は私たちが復活信仰に至る道筋を示しています。今、私たちの目の前に聖餐の食卓が見える形で整えられています。このパンとぶどう酒という目に見える御言を通じて、私たちは十字架上で御体を裂き、血を流されて罪を購って下さった救い主キリストを霊の目で見えるようにされます。肉の目には見えませんが魂の目においてキリストの救いは完成し、パンとぶどう酒を口にする信仰告白的行為を通じて、今もイエス・キリストと一つにされていることを確信できるのです。
 今まで「死が全ての終わりである」という常識が、キリストによってくつがえされました。今まで不確かであった死の後について、そこに明確な「新しい命」があることが示されました。私たちはいずれ死にます。しかし私たちを迎えるのは墓穴ではありません。その前に主イエスが両手を広げて墓の前に立ち塞がり、私たちを迎え入れてくれます。肉体や骨が一時的に墓に納められることはあっても、魂が墓に納められることは決してありません。イエス・キリストが天の御国に引き上げて下さるからです。私たちがこれから向かう死の彼方の世界には、キリストが両手を広げて待っておられ、私たちを迎え入れてくれることは明らかなのです。ですからキリスト者にとっての死は生の完成、神と一つになる救いの成就でもあります。これこそキリスト教信者が2000年以上信仰と希望をもって信じ続け、世界中のキリスト教会が命がけで主の日の礼拝を守ることを通じて証ししている神の福音です。あなたに、そして私に、墓で終わる命ではなく墓から始まる新しい命がイエス・キリストによって与えられているのです。2019年イースター、主の復活という歴史的出来事を覚えつつ、主の日を守り、聖餐に与り続けてゆきましょう。

(2019年4月21日 イースター礼拝の説教)



日本キリスト教会 札幌桑園教会

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