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(牧師 秋本 英彦 プロフィール)
1966年東京生まれ。
17才の時に「塩狩峠」(三浦綾子著)
を読んで深く感動して近くのキリスト教会に通い洗礼を受けました
22才で献身して神学校入学、卒業後は「美深、札幌北一条、
北広島山手」の北海道にある教会で奉仕。
2019年4月から札幌桑園教会で奉仕しています。
主日礼拝では「わかりやすい御言の説教」を心がけています。





「再び来られるキリスト」
使徒言行録1章3〜11節

 今年2021年のペンテコステは5月23日です。イースターは4月4日でした。そして復活したイエス・キリストが、弟子たちの見ている前で天に帰っていかれたことを昇天日と呼びます。使徒信条でも、「3日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しています。では主イエスが天に帰られた今年の昇天日はいつだったかお分かりでしょうか。イースターとペンテコステは主日なので意識できるのですが昇天日は平日のため覚えずらいのです。今年の昇天日は5月13日(木)、イースターから数えて40日後、ペンテコステから10日前になります。そこで今日はペンテコステを覚えながらも「主の昇天」、天に帰られたキリストと再び来られるキリストについて、ご一緒に考えたいと思います。
 最初に3節から5節までをお読みいたします。
 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」(3〜5節)
 イエス・キリストが復活された後の40日に及ぶ出来事は福音書やパウロの手紙に記されています。キリストが復活した事実が様々な形で数多くの証拠をもって40日間にわたり、いわば疑うことができないほどの期間、主は自らを明らかに示されたのです。コリントの信徒への手紙一15章5節には「ケファ(即ちペトロ)に現れ、その後12人に現れ、次いで500人以上もの兄弟たちに同時に現れました」と記されています。多くの弟子たちに同時に現れるという、明らかに今までと違う時間と空間に縛られない新しいいのちとからだをもって、復活のキリストは弟子たちに現れたことが明らかにされています。そして聖霊降臨の約束をした後に、みなが見ている前で主は天に帰っていかれたのです。
 そこで最初に「キリストの昇天」について考えてみたいと思います。キリストが天に昇られる直接的表現については使徒言行録が一番詳しく記しています。21世紀に生きるわたしたちは、宇宙についての科学的知識も得ています。ですから「天に帰ると言っても空の上には広大な宇宙が広がっている。これは神話的表象ではないか」と疑問を持つ方もありえるかと思います。けれどもキリストの昇天は、映画のように空の上を昇っていったという出来事とは根本的に異なるのです。誤解しやすいのですが「天に上げられる」という言葉は空に昇ってゆくという空間的表現ではありません。確かに弟子たちの目にはそう見えたのでしょう。けれども聖書的な意味から原語を調べますと、「天に上げられる」は「別の世界に昇る。神の世界に移る」という信仰的表現なのです。キリストの昇天は別の次元の世界が確かに存在することを教えています。今まで地上におられたキリストが、天の世界に移られたのが昇天が最も教えようとしている意味なのです。
 聖書の冒頭句、創世記1章1節には「初めに、神は天地を創造された」とあります。原語では天という場所と地という場の二つを造られたと読み取ることができます。ですから天と地は全く別な世界を指しています。時間と空間を超越した神の属する世界が天です。神が支配している完全な領域が天です。キリストの昇天は空に昇って行ったという意味以上の、神が神として全てを支配している、主が本来いるべき天に帰られた出来事です。天の御国が確かに実在することを、聖書はわたしたちに教えています。
 次に考えたいことですが、復活したキリストはなぜ天に帰られたのでしょうか。この箇所を黙想していて私が疑問に感じたことの一つです。今までの主は真の人であるイエスでした。ですから肉体を持つ人間としての制約を受けていました。イエスの体は一つしかありませんから時間と空間を越えられません。けれども復活のキリストは500人以上の弟子たちに同時に現れたように、もはや時間や空間には縛られない真の神の属性が現れたのです。主はそのまま地上に留まっていても良かったのではないでしょうか。40日間と言わず、もっと長い期間地上に留まり続けたら、さらに多くのキリスト者たちが生まれて宣教は拡大したに違いないのです。なぜ復活されたキリストは地上に留まらずに天に昇っていかれたのでしょうか。ここが次に考えてみたいことです。
 復活のキリストが地上に留まらずに昇天された理由。それは計り知れない神の計画があったからです。続いて6節から8節までを御覧ください。
 「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」(6〜8節)
 ここで使徒たちは何を願ったでしょうか。それは国の再建でした。当時、イスラエルはローマ帝国の植民地でしたので、ユダヤ人は救い主による解放を願っていたのです。わたしたちも似たような願いを持っています。「わたしたちの生活はいつ楽になるのですか、今年こそはコロナから解放してくださるのですか、日本を昔のように復興してくださるのはいつですか」、そんな問いを持っていないでしょうか。けれどもキリストの答に注目しましょう。キリストは「それは、あなたがたの知るところではない」と厳しく弟子たちに語られるのです。原語では「あなたがたはそのようなことは知る必要がない」と読み取ることができます。愛国心や未来への関心を拒否するかのようなキリストの言葉は一体何を意味しているのでしょうか。
 キリストは二つの視点でこのことを語っています。一つは「神は一つの国の祝福や個人の今後よりも、世界と人類全てに関心を持っておられる」ということです。国を超え、民族を超え、神の救いが及ぶためには何が必要なのかを教えるためにキリストはこのような言葉を語られたのです。ですからわたたしたちは未来について祈り求めながらも、最終的には御心のままに委ねなければならない一面を教えられるのです。もう一つは国の行く末以上に弟子たちが関心を持つべきものがあったからです。それはキリストの代わりに降臨する聖霊なる神です。使徒たちは、神に召された者として、何よりもやがて来る聖霊なる神に関心を持つべきでした。そのためにキリストは「あなたがたの知るところではない」と厳しく語られたのです。
 続く8節は聖霊降臨の約束でよく知られている箇所です。その場所はエルサレムです。ここは弟子たちの弱さや惨めさが現れた場、同時にキリストが十字架に架かられて復活した地です。それはイザヤ2章3節「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」の成就でもあります。「エルサレムから離れない」という待機命令。御言葉に静かに留まる所に主の新しい示しがあること、伝道は静かに留まることから始まることも示唆しています。このエルサレムは今日、主の教会に置き換えられます。教会に留まり、静まることから新しい神のわざは始まってゆくのです。2021年のペンテコステ、わたしたちは主の教会に集うことができません。けれどもじっと家に留まり、聖霊なる神の働きを祈り待ち望むことによっても神のわざは進みます。聖霊なる神はすでに教会に、またキリスト者に注がれているのです。
 最後に9節から11節までを御覧ください。
 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(9〜11節)
 これがキリスト昇天の様子です。そしてキリストが見えなくなり呆然と天を見上げている弟子たちに、白い服を着た二人の人が言葉を語るのです。これはキリストの復活を婦人たちに伝えた輝く衣を着た天使でしょう。聖書で天的存在が現れるのは、いつも重要な神のメッセージを語る時です。天使は「なぜ天を見上げて立っているのか。主イエスは再び来られる」との約束を与えて、弟子たちに天上から地上に目を向けるべきことを示唆しました。キリスト再臨の約束と地上への集中という二つの大切な真理がこの短い箇所に要約されています。
 イエスが昇天した後、呆然と天を見上げている弟子たちに、天使が語った言葉は重要です。最後にそのことを考えてみましょう。天使は「なぜ天を見上げているか」と語ったのでしょうか。それは弟子たちの目を地上に向けさせて、これから地上で主のために生きる決心を与えるためでした。もしこのままだったら、弟子たちは天を見上げたまま呆然と主を待って過ごす可能性がありました。この場所を聖地として教会を建てて終わってしまう危険もあったのです。しかし弟子たちの使命は世界に出てゆくことでした。主から託された宣教の務めに派遣されてゆくことだったからです。
 今、わたしたちも天を見つめる目から地に目を移さなければならないと思います。天には勝利がありますが地には苦難があります。天の御国には永遠の慰めが用意されていますが、地上には苦難と信仰の戦いがあります。「こんな苦しい状態が続くならば、いっそ早く天の御国に行きたい」と思うこともあります。しかし目を地に向けて、力強く世を進んでゆくことをキリストは求めておられます。それは神から委託されている宣教に励むためです。そのためにペンテコステに聖霊が降りました。天でも地でもキリストは中心におられ、主はいつもわたしたちと共にいてくださいます。そのキリストの約束に堅い信頼を置いて、主の教会で礼拝を守り、宣教に励んでゆくことが神に選ばれた者が生かされている目的なのです。
 主の十字架と復活、そして昇天からペンテコステの出来事は、神の民の群れとしての教会の歴史の始まりでもあり源でもあります。聖霊なる神を心から求めて、揺るがない信仰に立ち、その上でわたしたち信仰者が大胆に御言葉を宣べ伝えてゆく時、使徒言行録と同じ出来事が、今日も起こりえると確信できるのではないでしょうか。聖霊なる神は、神に用いられる器として自らを差し出す人間を、またそのような主のからだなる教会を待っておられます。目を天から地上に移しましょう。そして苦難の道を主と共に切り開いてゆきましょう。主の約束に捉えられて、また新しい一週を進んでゆきましょう。

(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝説教)



日本キリスト教会 札幌桑園教会

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