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(牧師 秋本 英彦 プロフィール)
1966年東京生まれ。
17才の時に「塩狩峠」(三浦綾子著)
を読んで深く感動して近くのキリスト教会に通い洗礼を受けました
22才で献身して神学校入学、卒業後は「美深、札幌北一条、
北広島山手」の北海道にある教会で奉仕。
2019年4月から札幌桑園教会で奉仕しています。
主日礼拝では「わかりやすい御言の説教」を心がけています。





「エルサレムを離れないで」
使徒言行録1章3〜11節

 ユダヤ教で最も大きな祭は「過越祭」と呼ばれる出エジプトを記念した祭です。その後50日目に「七週祭」とか「刈り入れの祭」と呼ばれる祭があり、この日は大麦の収穫の終わりを告げると共に小麦の収穫の始まりを祝っていました。日本でも先祖を供養するお盆と農耕祭を持つことに似ています。キリスト教はユダヤ教の過越祭を十字架とイースター、50日目の七週祭をペンテコステに置き換えて守り続けるようになりました。今日はペンテコステ礼拝ですが、時計の針を少し戻して、イエスが復活してから40日後の昇天日、キリストが天に帰られた時の出来事に学びたいと思います。
 最初に3節から5節までをご覧ください。
 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」(3〜5節)
 キリストが復活された後の40日に及ぶ出来事は福音書やパウロの手紙に詳しく記されています。復活した事実が様々な形で数多くの証拠をもって弟子たちに示されました。そして遂に地上を離れるキリストが弟子たち命じられたことは、「エルサレムを離れないことで聖霊が降ることを待つ」ことでした。最初にこのことをご一緒に考えたいと思います。
 「エルサレムを離れない」。このエルサレムは弟子たちにとって過ごしやすい場所ではありませんでした。元々ガリラヤ出身の弟子たちであり、エルサレムは主イエスが十字架に架けられた場所、ユダヤ人指導者たちが今も弟子たちを捕え迫害しようとしている場所です。さらに主イエスを見捨てて逃げた場所であり、弟子たちの弱さが一番現れた町です。本来であれば弟子たちにとっては「故郷ガリラヤで待つ」のが一番安心だったのではないでしょうか。事実、マルコによる福音書は「ガリラヤへ行かれる」と命じています。しかしエルサレムで待ち続けることに深い意味があったのです。
 このエルサレムは、キリスト者にとって今日の教会にあたります。教会は聖霊なる神が注がれ、その導きの中で礼拝を守り、神の言葉を受ける場所ですが、同時にキリスト者の弱さが最も現れる場所でもあります。初代教会で食事の問題が生じたように、小さなことが教会でトラブルになることがあります。「人間関係のこじれ、考え方の違い、牧師と教会員の対立」など、みな罪許された罪人の集まりであることを実感する場所です。「教会を離れたい」と思った人もいることでしょう。けれども今、ペンテコステで約束された約束はキリストのからだである教会に注がれています。教会で待つこと、結びつくことが、キリストの命令に従うことにのです。教会教父のキプリアヌスが「教会の外に救いなし」という言葉を残しましたが、それはある意味真実を語っています。「エルサレムを離れない」。それは教会を離れないことに通じることを最初に確認したいと思います。
 復活のキリストは天に帰ろうとしています。主イエスご自身から直接教えられて導かれる時は終わりを迎えようとしていました。ちょうど七週の祭が大麦の収穫を終えて小麦の収穫に入るように、旧約の時は終わり新約の時に移ろうとしていました。さらにはイエスの時から弟子たちの時、あるいは教会の時へ移行しようとしていたのです。今後は主イエスに変わって、弟子たちが人々に福音を語って主から託された務めを果たすために、聖霊なる神が遣わされると告げられています。聖霊の働きの結果としてキリストのからだである教会の結集が起こり教会時代の始まりを意味します。主イエスが地上を去って天に昇られるということは、新たな主の教会が生み出され、教会を通じてキリストのわざがなされる新しい時への移行だったのです。
 続いて8節をご覧ください。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)
 聖霊を受けた弟子たちは、聖霊が降るとキリストの証人としての務めが始まると告げられます。次に聖霊によって福音はどのように広がってゆくかを見てゆきましょう。彼らは、その証人としての働きをエルサレムから始め、さらにユダヤとサマリアの全土に広げ、そしてついには地の果てに至るまで、その働きの場を広げてゆくことが告げられています。事実、使徒言行録の内容と構成は、弟子たちの証人としての働きが、まずエルサレム中心においてなされたことが記され、続いてユダヤ、サマリア地方への広がりが語られ、最後は地の果てまでローマにまで御言葉が伝えられたことが記されています。
 最初のエルサレムは先ほども申し上げたように、弟子たちの弱さが最も現わされた場所です。このエルサレムを教会にあてはめることもありますが、これを家、家庭と解釈する聖書学者もいます。福音はまず家庭から始められるべき。家庭というエルサレム、ここに真の平和が訪れるための証人になるべきとのキリストの勧めです。次はユダヤ、これは周辺地域です。福音を担う者は周辺に伝える務めを持ちます。友人、近所、会社、サークル、ユダヤという広域にも福音は伝わるべきものです。さらにサマリアとあります。ここはサマリア人が住むユダヤ人とは仲の良くない地域です。好ましいと思えない場所、敵対関係とも言える場所。そこにも福音は広まってゆくのです。他宗教、キリスト教に反発する人々と言えるかもしれません。最後は地の果てです。このように世界のすべて地域に神の福音が及ぶように計画されています。それは2000年間続けられて今、イスラエルから地の果てにあたる私たちの国にも福音は伝わっています。だからこそ私たちも、このキリストを伝える務めを止めてはならないのです。
 さらに9節から11節までをお読みいたします。
 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(9-11節)
 さらにイエスが昇天した状況を見ましょう。復活のキリストは天に帰ってゆきます。直訳では「雲が彼を取り上げ、彼らの目の前から運び去った」と記されています。空に昇って行ったという以上に、キリストは地から天という別の世界に移ったという言葉です。聖書で雲は神がいること、臨在を現わしますので、神の臨在がキリストを本来いるべき天へと運んで行ったという意味になります。それを弟子たちが目撃したのです。
 主の使いは「なぜ天を見上げて立っているのか。また主はおいでになる」と語られました。ここには再臨の約束が語られています。この約束が実現するまで、教会はエルサレムを離れないで福音を語り続ける務めを世々に渡って担うのです。御使いの言葉は天を見上げている弟子たちの目を天から地上に向けさせるためのものでした。弟子の使命は昇天したキリストを見上げて生きることではなく、地上を見つめて宣教の使命を受けて教会で生きることにあったからです。
 この昇天日とペンテコステですが、なぜ教会は昇天日よりも後のペンテコステを重視して三大祝日としたのでしょうか。本来であればイエスの生涯のストーリーの完結になるのが昇天です。処女降誕、十字架、復活、昇天という一連の流れは無視できないはずですが、教会は昇天日を覚えつつも、それを特別に記念とするようなことはしませんでした。聖霊降臨の主日を覚えることを第一としたのです。その理由はキリストの働きはまだ完成していないからです。キリストは再び世界を治めるために来られるという再臨の約束があります。昇天で終わりではなく再臨で完成なのです。その昇天と再臨の間に大切な務めとしてペンテコステに始まる教会の誕生が重視されたのです。いわばキリストの働きは今も継承され続けていることを後の時代の人々に知らしめるためだったのです。
 最後に、コリントの信徒への手紙一15章3節から8節までをご覧ください。新約聖書の320ページです。
 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと(3節)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと(4節)、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです(5節)。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています(6節)。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ(7節)、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました(8節)」。
 使徒パウロは復活のキリストがどれだけ多くの人々に現れたか復活リストを作っています。ここを見ると最初にペトロ、そして12人の弟子たちとあります。ここには復活の朝、墓に訪れたマグダラのマリアたちの名はありませんが、その女性弟子を含めるならばこれで15、6名になります。特に興味深いことは500人以上の弟子たちに同時に現れたことです。これはエルサレムにいたイエスを信じる者たち、すべての数と言って良いでしょう。さらにヤコブ、このヤコブは使徒ヤコブではなく、主イエスの兄弟ヤコブです。ヤコブ、そしてパウロにも現れました。合計520名くらいが復活のキリストに出会っています。けれども使徒言行録2章のペンテコステ時にエルサレムで聖霊を待ち続けていたのは120名です。復活のキリストを見た者の僅か10日の間に300名は離れてしまったのです。このことは見て信じる信仰は残らないこと。見ないで信じる信仰こそが生けるキリストと結びつくことを教えています。私たちもその一人に数えられています。
 これらの出来事は、神の民の群れとしての教会の歴史でもあります。聖霊なる神を心から請い求め、聖霊なる神への揺るがない信頼に立ち、その上で私たち信仰者も大胆に御言葉を宣べ伝えてゆく時、使徒言行録と同じ出来事が、今日起こりえると確信できるのではないでしょうか。聖霊なる神は、聖霊を宿す器として自らを差し出す人間を、またそのような主の教会を期待しておられます。こうして大いなる約束を残して、復活の主は神の元に帰って行かれました。ペンテコステはそのことを確認するために定められたのです。私たちは地上において命のある限り、この天におられるキリストを地で証しし、神の救済の完成のためにその務めを継承してゆく者でありたいと思います。

(2024年5月19日 ペンテコステ礼拝説教)



日本キリスト教会 札幌桑園教会

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